軽羹百話|御菓子司 明石屋
明石屋トップ>軽羹百話

軽羹百話

安政元年、時の藩主島津斉彬公のお声掛かりで生まれた銘菓「軽羹」。自然薯(天然の山芋)と米の粉と砂糖だけで作られる素朴な味は、質実剛健の薩摩気質を映し出す郷土菓子として永く人々に親しまれてきました。こだわりの素材と伝統の製法でふるさとの温もりを今に伝える明石屋 の軽羹。その独特の風味と白く凛とした姿に清廉潔白な「薩摩の心」が宿ります。

軽羹(かるかん)とは・・・

白くてふんわり、柔らかい。美味しい! 鹿児島名産の「軽羹(かるかん)」という名前のお菓子をご存知でしょうか。
語感の軽やかさとその親しみやすさから、ふんわりとした和菓子を連想されるかと思います。

「軽羹」は原材料に自然薯(じねんじょ=山芋)をふんだんに使った羊羹(棒羊羹)のかたちをした和菓子です。

空気をたっぷり含んで蒸されるため、ふんわりと柔らかく、饅頭などの他の和菓子に比べても際立って白いのが特徴です。その優しい姿からは想像つかないほどのしっかりとしたコクのある旨味が口中に広がります。

軽羹(かるかん)の初見・・・

300年前に登場!

現在、「軽羹」は薩摩(鹿児島)で最も多く作られていますが、もちろん生まれも薩摩です。


「軽羹」がこの世に生まれたのは、今から遡ること三百年前。時は元禄、島津家二十代綱貴の五十歳の祝いの席に用いられたのが、最も古い記録となっています。
他の大名家でも「軽羹」は祝い事に登場することがありますが、それ以後ということです。

七十七万石の島津家は将軍家との間で数度の縁組みが執り行われました。
豪華な婚礼の三日・五日の祝いの儀で、三汁十菜のご馳走に「軽羹」は用意されたようです。
浄岸院がお殿様のいる表へ出向く時の料理や琉球の中城王子を迎える時の接待の中で、「軽羹」は出されています。婚礼・年始・賀儀などの重要な日に登場した「軽羹」は格式高いお菓子だったのです。

軽羹(かるかん)という名の由来

軽い羊羹?

「軽羹(かるかん)」という名はどこから来たのでしょうか。 「軽羹」の名前の由来は諸説ありますが、その中に「軽い羹(羊羹)」という意味からきたという説があります。
羹という語は、中国では汁物のことをさします。従ってその名から大陸(中国)系と考えられています。

江戸時代のしっぽく料理書「割烹余録」の中に「薩摩侯饗宮川侯卓子式」という献立があります。時代は二十二代重豪の頃と思われ、宮川侯をもてなした献立表によるものです。この献立の内容は琉球との交流によって伝えられたものが多くあるのに驚かされます。

料理の内容では豚の角煮や赤花いか、海参やあしか(海馬)の料理、饗応の様式も中国風であったようです。
この中の夜飯点心の項に羹とあって「カルカン」とルビがふってあり、「軽羹」の名はやはり大陸(中国)系そして薩摩藩に由来するものであるのでしょう。

軽羹元祖明石屋の歴史

江戸より菓子職人招聘

薩摩藩主島津斉彬公は、江戸で製菓を業としていた播州明石の人、八島(明石)六兵衛翁を国元の鹿児島に招きいれました。
江戸の風月堂主人の推挙を受け、その菓子づくりの技術と工夫に熱心なところを評価してのことでありました。

性剛直至誠を重んじる六兵衛翁は、鹿児島では「明石屋」と号して、藩公の知遇を得ました。

やがて六兵衛翁は薩摩の山芋の良質なことに着目し、これに薩摩の良米を配して研究を続け、類い稀なる美味「軽羹」の創製を成し遂げたのです。

明石屋の軽羹(かるかん)の記録は、弘化4年(1847年)島津家二十七代斉興の時代、少将(長男斉彬)が鹿児島において鷹狩りへ出かけたときの記録にみられます。島津家の御用菓子司であったことがわかります。
明治初年、六兵衛翁は木原政吉に2代目を譲り帰京、3代目木原末吉、4代目岩田喜藤次、5代目太一、6代目泰一と続き現在7代目に至っています。

軽羹と斉彬公

日本の近代化の礎「集成館事業」

1851年、薩摩藩主となられた島津斉彬公は他藩に先駆けて、日本の近代化の礎になる事業に取り組まれました。
大河ドラマ「篤姫」で魅せたその存在感は、記憶にも新しいのではないでしょうか。

薩摩の磯という地に「集成館」といわれる工場群を築き、製鉄や造船、紡績、ガラス、通信、印刷、食品等の事業は多岐にわたります。

この集成館事業の一環として「蒸餅」などの保存食の研究開発も進められました。安政2年新川沿いに水車館を設立、米粉の製造などを行っていたそうです。

斉彬公は、江戸で菓子屋を営んでいた八島六兵衛(播州明石出身)を招き入れました。美味しくて栄養がある保存食の研究の為だったといわれています。
そして八島六兵衛のお菓子が評判となり、「明石屋菓子」といって珍重されました。このことからも明石屋の軽羹は、斉彬公を抜きにしては語れないことがお分かりいただけると思います。

諸国の軽羹

鹿児島以外の軽羹(かるかん)をみてみよう

享保8年(1723)年岩国藩吉川家の第六代経永の結納の献立にあります。次いで、元文3年(1738)豊後岡藩のものと思われる菓子値段帳や山形鶴岡の堺様菓子値段帳(1778)に、また江戸の菓子司紅谷志妻津摩の目録(寛政頃)に、さらに万延元年(1860)熊本藩細川家の家督祝儀など各地に記録がありますが、いずれの場合も「軽羹」は一生に何度もないようなハレの日にだされていたようです。

「軽羹」は鹿児島の元禄12年(1699)がもっとも古い記録であることは前述のとおりで、江戸時代にさきがけて作られていたと思われます。
そして、島津家の江戸屋敷においても、大事な接待のときの菓子として出され、鹿児島から次第に全国に広まっていったと思われます。

鹿児島の代表銘菓への歩み

明石屋の軽羹

明石屋初代・八島六兵衛翁により創製された明石屋の「軽羹」は、今日までその伝統の美味しさを伝えています。

選び抜いた「自然薯」「米粉」「砂糖」だけの自然な原料だけを用いて作り上げています。
自然薯を生地に加えることで味に広がりが出るように、 米粉、砂糖と自然薯との相性は素晴らしいものです。

明石屋の「軽羹」は自然薯の持つ豊かな風味を、米粉が十二分に引き出してくれるように工夫されたものです。米粉だけでは表現できないあのふっくらと軽い口当たり。良質な自然薯の特長を活かし続けてきた明石屋の歴史に支えられた味だといえるでしょう。
薩摩の風土と自然薯に愛でられた明石屋の「軽羹」は、まるで純白無垢なお披露目の姿のようです。

お菓子「軽羹」の効能

味と栄養、自然薯パワー。

ヤマノイモ科のヤマノイモ属の、天然モノの別名がじねんじょ(自然薯もしくは自然生)です。

山野に生育する植物で、7月~8月に小さな花をつけます。冬の寒い時期のものが一番美味しいとされますが、その時期の自然薯を手に入れるのは容易ではありません。

その時期は自然薯の蔓はもとより周りの木々の緑も冬枯れてしまうため、見分けるのが困難なのです。仮に自然薯の蔓を見つけても、掘る作業は決して生易しくありません。

自然薯は美味しいだけでなく、たんぱく質・ビタミン・ミネラルはもちろん消化酵素のアミラーゼも豊富です。
また、アルギニン等の強壮作用のある酵素も多分に含まれており、スタミナ増進にも期待がもてるかもしれません。白くてふんわりとやわらかい「軽羹」を、口当たりが良いだけのお菓子と決めつけるのは、もったいない話のような気がします。

自然薯

とろろが美味しさの素。

「軽羹」の美味しさの源は、その原料となる自然薯(天然の山芋)のものであるといえるでしょう。
「軽羹」を製造する際に、良質な自然薯がたっぷりと使われています。薩摩(鹿児島)では、昔から地元で良質な自然薯が育つことで知られていました。

自然薯といえば、一般的に「麦とろご飯」や「とろろ蕎麦」に使われ、すり鉢やおろし金ですった「とろろいも」としてイメージされることが多いのではないでしょうか。

そんな自然薯はやはり昔から「とろろいも」としてだけでなく、和菓子の材料としても重宝されてきました。
明石屋の「軽羹」は自然薯と米粉と砂糖で丁寧に作られます。良質な自然薯があってこそのお菓子であるといえるでしょう。

良質な自然薯が薩摩(鹿児島)で取れるという、良いご縁。「軽羹」は薩摩の風土と自然薯に愛でられて、その真っ白な姿を皆様の前にお披露目することができているように思えます。

軽羹と軽羹饅頭

それぞれの楽しみ方

「軽羹」登場からおよそ150年が経った頃、棹物だけであった「軽羹」に、餡入りの「軽羹饅頭」が登場しました。

弘化3年 (1846年)の11月、28代斉彬が少将の時代、鹿児島にて「軽羹饅頭」を召し上がったという記録が残っています。
饅頭状であれば、切らずに手にして食べることができます。
「軽羹」は饅頭の形になったことが、日常的な菓子へと姿を変えていくきっかけになったと考えられています。

「軽羹饅頭」が登場したその翌年には「蒸し立て軽羹饅頭」、翌々年には「軽羹饅頭紅あん入り」とバリエーションも増えました。真っ白い軽羹に薄桃色の紅あんの「軽羹饅頭紅あん入り」が、当時どれほど軽やかで華々しいものであったかは、容易に想像できると思います。

「軽羹」のもつしなやかな弾力性とあんの力強さが一体となり、魅力を増した「軽羹饅頭」だからこそ、案外「軽羹」そのものの魅力を後世まで伝えることができたのではないでしょうか。

皆様へ

薩摩藩島津家は七十七万石の全国でも有数の大藩でありました。
また、地理的にみても南は異国の窓口として開かれ、長崎とともに重要なところとして外国に知られていたと思われます。

明石屋は、記録によると弘化四年(1847年)以来、「かるかん」を永い間つくりつづけてまいりました。
よく「かるかん」という名前の由来について尋ねられることがあります。大陸系のものであろうことは推測できたものの、今一つはっきりとお答えするまでに至っておりません。

しかし、長年の歳月をへて改良を加え今日の「かるかん」に至り、鹿児島の特産としてご愛顧いただいております。かねてより、島津家や、東京大学史料編纂所、その他の史料にもとづき創業150年を記念して、1999年(平成11年)には、「かるかんの歴史」を刊行。「かるかん」の歴史をたどるとともに、江戸時代の鹿児島の菓子について調査、研究してまいりました。最近においても新しい発見や史料の解読があり、さらに調査、研究をすすめてまいります。

これまで160有余年にわたり明石屋をご愛顧いただいている鹿児島のお客様、全国各地の皆様、ならびに江戸時代、明治維新、戦前、戦後と歴代にわたって菓子づくりに専念していただいた職人、従業員の皆様に心より感謝申し上げます。

2021夏カタログ